逆境的小児期体験をめぐる問題
「ストレス」という言葉とともに日常的にも使われる機会の多い「トラウマ」という言葉は、一般的には「嫌だと感じた出来事」あるいは「傷つき体験」の意味で使われることが多いようです。
「SAMHSAのトラウマ概念とトラウマインフォームドアプローチのための手引き」によると、トラウマは「できごと(Event)や状況の組み合わせの結果として生じ、身体的・感情的に有害であるか、または生命をおびやかすものとして体験(Experience)され、個人の機能的および精神的、身体的、社会的、感情的またはスピリチュアルな幸福に、長期的な悪影響(Effect)を与えるもの」とされています。
あるいは、トラウマは「非常に強い心的な衝撃を与える体験を経て、その体験が過ぎ去った後も体験が記憶の中に残り、精神的な影響を与え続ける、精神的な後遺症」とされています。(金『心的トラウマの理解とケア』じほう)
トラウマ体験には、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」の診断基準で定められている「実際に、危うく死ぬ、重症を負う、性的暴力を受ける出来事(DSM-5)」をはじめ、「複雑精神的外傷後ストレス障害(C-PTSD)」の診断基準では「極めて脅威的または戦慄的な性質の出来事、または一連の出来事で、逃れることが困難または不可能な反復的な出来事(ICD-11)」と定義されています。
逆境的小児期体験(ACEs)による影響
「逆境的小児期体験(ACEs)」は、近隣の暴力、両親の離婚、トラウマ性の喪失、貧困、家族の精神疾患や物質乱用など3つの領域、すなわち虐待、環境の問題、ネグレクトから構成されており、「子どもに直接影響を与えるものと、子どもの生活環境を介して間接的に影響を与えるものがある」とされています。(亀岡・編『実践トラウマインフォームドケア』日本評論社)
アメリカの疾病対策予防センター(CDC)が1995年から1997年にかけて実施したACEs研究で、「18歳までのACEsの累積により、その後の神経発達不全を引き起こし、それが社会・情緒・認知面の障害につながり、心身の健康不全や社会不適応・行動の問題として表面化し、さらには寿命にも影響するというモデルが提唱された」のです。
わが国において、最低1つ以上のトラウマとなりうる体験を有している人は、一般人口で約6割とされているが、精神科診療所の外来通院患者では約9割であることが報告されている。また、1つ以上のACEsを有する人は、一般人口で約3割であるが、精神科診療所の外来通院患者では約6割であることも報告されている。
これらのトラウマ歴やACEsを有する人の中には、人生の早期より慢性反復性に養育者などから虐待を受けたために安全なアタッチメントを形成できなかった人、家庭内の諸問題や貧困・家庭外でのいじめやハラスメントなどのために慢性的に強いストレスにさらされてきた人、大きな自然災害や事故・犯罪被害・性的暴行・大切な人の突然の死などを体験しPTSDやトラウマ関連障害に苦しんでいる人などが含まれる。
亀岡「トラウマインフォームドケアとは」in 亀岡・編『実践トラウマインフォームドケア』日本評論社
医学的にもPTSDや複雑性PTSDの「出来事基準(トラウマティック・イベント)」の違い、さらには、「逆境的小児期体験(ACEs)」など、さまざまな範囲のトラウマ定義があります。
引用している本にも「現実の精神科診療所では、トラウマと聞いただけで診療を拒否するところから、トラウマ関連障害に対してトラウマに特化した専門的な治療を行っているところまで、さまざまなのが現状である」とあるように、多くの精神科診療所では、トラウマティック・イベントや症状を検討せずに、「養育歴に問題がある=複雑性PTSD」と安易に診断し、トラウマ治療は行えないとの理由で、患者さんが路頭に迷うことになることが多いようです。
余談ですが、先日、こころの健康クリニック芝大門の継承について相談してみました。
お返事は、リワークは何とかなるかもしれないが、こころの健康クリニック芝大門のようにトラウマ関連障害や摂食障害の治療を専門としているところは難易度が高い、つまり、この領域の治療を引き継いでくださる精神科医を探すのは非常に大変です、と渋い反応でした。
私自身の印象としては、半日のリワークの約3ヶ月程度で復職につなげるのは、労働安全衛生法を熟知し精神科産業医の経験が十分あり、かつ、精神療法をこなせる精神科医ではないと難しいと感じています。
患者さんたちを路頭に迷わせるわけにはいかないので、他の先生方ができないのなら、私の命がある限りトラウマ関連障害と摂食障害の専門的治療を続けることを決心しました。私が最期に見るのはどんな景色なのでしょうか?
閑話休題。
トラウマ関連疾患の診断と問題点
トラウマのサインや症状に気づくためには、スクリーニングやアセスメントが不可欠である。
精神科医療機関や児童相談所など、その後治療や処遇決定を担当する機関では、トラウマやPTSDに関する詳細なアセスメントが欠かせないが、それ以外の機関においても、トラウマに関する簡単なスクリーニングは必要とされている。
スクリーニングに際しては、クライエントのスティグマを軽減するために、対面式ではなく簡便な自記式質問紙などが推奨されている。
(中略)
この時必要なのは、そのクライエントが過去にトラウマ歴やACEsを体験しているかどうかを大雑把に知ることであり、体験時のクライエントの気持ちを深掘りして聴取する必要はない。むしろ、深く聴取することは、この段階では禁忌である。
亀岡「トラウマインフォームドケアとは」in 亀岡・編『実践トラウマインフォームドケア』日本評論社
『複雑性PTSDと解離』『複雑性PTSDの治療の実際』などで受容傾聴型のカウンセリングの弊害について言及しましたが、いわゆる問診によるトラウマ関連疾患の診断によっても、トラウマ体験の蓋が開いてしまい収拾がつかなくなる危険が大きいのです。
こころの健康クリニック芝大門でもトラウマ関連疾患のアセスメントには、自記式の質問票を用いていますが、この方法にも問題が指摘されているのです。
通常PTSDでは、トラウマ体験時の恐怖が条件づけられるため、本来危険ではないものを危険であるととらえてしまうことによって、症状が出現することが多い。
亀岡「発達障害とトラウマインフォームドケア」 in 亀岡・編『実践トラウマインフォームドケア』日本評論社
最もつらかったできごとを対象者自身が選んでPTSD症状に関する自記式尺度に答える場合は、PTSD症状の評価がそのトラウマ的出来事に焦点化されず不安や抑うつなど他の精神症状の影響で過大評価される可能性がある。
田中「トラウマ専門治療機関からみるトラウマインフォームドケア」in 亀岡・編『実践トラウマインフォームドケア』日本評論社
これらのことから、以下の注意が喚起されているのです。
PTSDの診断に際して、A基準はトラウマを引き起こした客観的事実の存在を前提としているが、その事実の確認が臨床では困難な場合がある。トラウマを引き起こしたできごとの存否が明らかでない場合の診断書の扱いには注意が必要である。ハラスメント訴訟など産業精神保健や離婚訴訟に関連した診断書には、特に注意を要する。
症候から遡ってA基準の存在を想定すること(syndrome evidence)は避けなければならないが、A基準にあたるできごとがあったと仮定すれば患者の呈する症状はPTSDであるといえるとする仮言診断(hypothetical judgement)は可能とする考えもある。一方、本邦でのPTSD診断が個人のパーソナリティ傾向やストレス脆弱性が考慮されずに安易に成されているとする批判もある。
(中略)
対人関係のトラウマに関連する診断が、しばしば被害・加害を想定することになり、トラウマと現在の心身の失調を直線的な因果論で結んでしまう危険性には注意を要する。
(中略)
複雑性PTSDがICD-11に正式に入ったことで、A基準問題は今後本邦でも過誤記憶(false memory syndrome)の問題も含め、さまざまな議論を呼ぶことが予想される。
大久保「地域精神医療におけるトラウマインフォームドケア」in 亀岡・編『実践トラウマインフォームドケア』日本評論社
「昔の虐待や被害を急に思い出して、それについての訴訟をおこすことはすすめできない。現在進行形の特に性被害について、刑事訴訟を含む加害者に責任を取らせることは、被害者に社会正義が存在することを教え、被害者を立ち直らせる上で非常に意味があると筆者は考えている。しかし時間が過ぎた過去の出来事に対してそれを行うことは、証明が非常に難しく、被害者側のリスクが高すぎる」という指摘もあります。(杉山『テキストブックTSプロトコル』日本評論社)
トラウマ関連疾患やACEsの診断および治療だけでなく、社会との関わりはなかなか難しいものがあるのです。
院長