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父の死 

[2020.08.21]

私の結婚式の3か月後、父は自ら命を絶ちました。

当時の私は、父を含め家族との関係を整理できていませんでした。突然の父の死により、私は押し寄せてくる哀しみや怒り、罪悪感、自責感など様々な感情で、心がぐちゃぐちゃになりました。

父が亡くなってから最初の1年は、見るものすべてが父の記憶を引き出してしまい、つらくて毎日泣いていました。それから父を美化するでもなく、恨みや憎しみで塗りつぶすでもなく、ニュートラルに受け入れるまでには長い時間がかかりました。

今は、哀しみがゼロになったわけではありませんが、父は父の人生を全うしたと思っています。そして、当時抱いていた「私があの時もっとこうしていたら…」という自責感も、人の命をどうこうするなんてそもそも人間にはできないことなんだと感じています。

 

父の死は、病気の治療という意味でも大きな転換点となりました。

父が亡くなったのは治療を始めて1年半が経った頃でしたが、その頃の私はまだどこかで両親に対し「こんな病気になったのは親のせいだ」という怒りを手放せずにいました。しかし突然の父の死によって、私はその怒りをぶつける相手を失ったのでした。そのことが結果的には、私を自分自身に向き合わせたのです。徐々にではありましたが、親に対する割り切れない気持ちは一旦脇に置いておき、自分自身の課題に取り組めるようになっていきました。

 

当時の私のように、親や自分以外の誰かのせいでこうなった、と感じている患者さんは少なくないかもしれません。けれども私がそうだったように、病気の原因だと思っている人と別々に暮らしたら病気は良くなったでしょうか。その人が亡くなったら病気は治ったでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

私の場合は良くなるばかりかむしろ症状は悪化しました。この病気は原因はわからないと言われています。たくさんのきっかけはあるけれど、そのきっかけと、もともと持って生まれたその人の特性と、出来事の体験の仕方がたまたま鍵と鍵穴のように一致した時に発症すると考えられています。ですから、原因探しや犯人捜しをしていても病気の治療には結びつかないのです。そこには答えはないのですから。

 

今日は、私が何度目かの法事の帰りに出合った一節をご紹介したいと思います。

「音のない音」

(前略)

フルートは高い音の出せる楽器である。しかし、高い音をきれいに吹くのは実に難しい。われわれが吹くと、いわゆるキンキンした音になってしまう。そんなときに、先生が言われるのに、高い音を吹くときに、「浮ついてしまう」というか、体も何だか上の方に上がってしまう感じになるから駄目なのである。音が高く上がっていくときには、体の感じは逆にむしろおなかの下の方へ下がっていって、それを支えるようにならないと駄目なのである。これは実際にフルートを吹いてみないとよく分からないだろうが、音が高くなるに従って、体の支えの方は下に向かっていく。言うならば、音にならない低い音が高い音を支えているような感じになるのだ。これは実際に吹くとなると難しくて、高い音が来るとつい体までが浮いていって、音色が悪くなってしまう。

この練習をしていて思ったのは、人間というのは何か調子がよくて上昇傾向にあるときは、手放しで上昇してしまって、浮ついたことになりがちである、ということであった。どれほど上昇しても、それをしっかりと支えるためには、何らかの下降がそれに伴って生じていないといけない。高い位置と低い位置との間に存在するある種の緊張が、高いものを支え、厚みを与えるのだ。人間の幸福というものもこのようなものだろう。幸福の絶頂にあるようなときでも、それに対して深い悲しみ、という支えがなかったら、それは浅薄なものになってしまう。幸福だけ、ということはない。もちろん、フルートの音しか一般の人には聞こえないのだが、それがよい音色であるためには、音のない音がそれを支えているように、幸福というものも、たとえ他人にはそれだけしか見えないにしても、それが厚みをもつためには、悲しみによって支えられていなくてはならない。

(中略)幸福というものが、どれほど素晴らしく、あるいは輝かしく見えるとしてもそれが深い悲しみによって支えられていない限り、それは浮ついたものでしかないということを強調したい。恐らく大切なのはそんな悲しみの方なのであろう。

(引用:河合隼雄、河合隼雄の「幸福論」より)

 

今この瞬間も、あなたは傷つき哀しんでいるかもしれません。

けれど、一生消えないと感じるような傷つきや哀しみも、変えていくことができます。出来事そのものは変わらないかもしれないけれど、あなたの解釈が変われば感じ方が、そして物語が変わります。私はそれによって、過去さえも変わったと感じました。

 

最近自分のカルテを読んでいて気付いたことがありました。

父の死後約1年分ほどのカルテは、読みながら涙してしまいましたが、読んでいて「ああ、あのときこんなことを話したな」と久しぶりに思い出したことがいくつかありました。あれほど哀しみつらかったはずのことを、忘れていたのです。

これは驚きでもあり少しうれしくもありました。つらい経験も忘れることができるようになったと。今まではつらいことや哀しいことは、どんどん積み重なっていくような感じがしましたが、これも治療を受けて変化したことの一つだと気づきました。

 

哀しみは幸せを深め、幸せは哀しみを癒してくれる。

そんな連鎖があるから、もう二度と立ち上がれないと思うような哀しみに出合っても、ひとはまた歩き出せるのだと、私は信じています。

 

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