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刹那の反転7〜 トラウマと愛着障害の彼方へ

[2013.01.21]

刹那の反転6〜共感のまなざし』で、臨床という場はセラピストがクライエントに母親と同質の“共感”の“まなざし”を向けることで、クライエントは感情をもつことそのものが受用されるという信頼を通じて心が動態化し、受動から能動への反転により外傷体験の無効化を可能にしている、ということをみてきました。

 

では、愛着障害や愛着(アタッチメント)関連トラウマという状態、つまり岡田尊司・著『シック・マザー』(筑摩選書)に書かれているような安全基地となり得ない母親と愛着の傷つきの場合はどうでしょうか?

他者の視線の起源は乳児の時に(あるいは授乳の時に)母親から受け取った視線にあるといえよう。
母親の視線が不安であったか、冷淡であったか、慈愛に充ちていたか、苛立たし気であったか、これらありうるすべての状態は、いわば共鳴し、共振する状態で、視線を視て了解することの質を決定してゆくにちがいない。
その期間の母親の主情緒は他者の視線を感受する視線の主情緒を決定してゆくための、ほとんどすべてを占めているとみなされる。
都合よくかんがえればこのときの母親の声の主調音もまた聴覚の認知の質を潜在的に決めてゆくかもしれない。
吉本隆明『心的現象論本論』

母親(あるいは養育者)が子どもに「何をなすべきか」(doing)よりも、母親(あるいは養育者)が「どういう状態にあるか」(being)の側面が非常に重要なようです。

 

愛着(アタッチメント)と治療関係』で触れた『治療的自己』の治療技法などの<doing>の側面と、治療者が何者であるかという非特異的な<being>の側面と同質のことが述べられているようですね。

母親の養育態度が乳胎児の成長に大きな影響を与えることは誰もが認めるだろう。
ところが、吉本がいっていることは、影響どころの話ではない。
「母親の心がすべて乳児にコピー(転写)される」というのだ。
吉本の述べていることは、少しいい方をかえれば「人間の乳児の2年間という異常に長い時間は、母親(あるいは養育者)の“心の世界”を乳児にコピー(転写)するために用意された時間なのだ」ということになる。
宇田亮一・著『吉本隆明「心的現象論」の読み方』(文芸社)

 

母親(あるいは養育者)の「冷たい“まなざし”」、つまり母親(あるいは養育者)の「安心感・安堵感のなさ」というあり方<being>が子どもの心を動態化するということですよね。

母親(あるいは養育者)自身の“苛立ち”や“余裕のなさ”が子どもに伝染する時、子どもは泣き叫んで、まったくコントロールできない情動をあらわにする。
すると、これに母親(あるいは養育者)が反応し、怒りや憎悪から、殴りつけたり無視したりする。
これがまた子どもの情動に影響を与える……こうした“負の連鎖”の果てに“虐待死”があると考えられる。
この時、母親(あるいは養育者)の行動は、子どもの態度に反応しているかのようにみえるが、じつはその子どもの態度は母親(あるいは養育者)の“心”そのものでもあり得るのだ。
宇田亮一・著『吉本隆明「心的現象論」の読み方』(文芸社)

 

ところがこのような育児の責任の問題、つまり母親がどういう状態<being>であるかの責任は、母親だけにあるのではないことに注意が必要です。

子どもの一生が、乳幼児期という過去にからめとられるという決定論ではないのだ。
ここで想定していることは、母親(あるいは養育者)からの子どもが受け取った“心の傷”は、思春期以降の精神的“脆弱性”につながる可能性があるということである。
宇田亮一・著『吉本隆明『心的現象論』の読み方』(文芸社)

このような脆弱性が、幼小児期の愛着障害であったり、成人の不安定型の愛着スタイルということですよね。

 

こうした状況により、親の協力が得られないということもしばしばであるし、得られたとしても、そのためには、何が起きているのかを説明し、ボタンの掛け違いを気づかせる第三者が必要になる。
結局のところ、愛着障害を克服していく場合、こうした第三者の関わりが不可欠と言ってもいいだろう。
その第三者が、親が果たしてくれなかった役割を、一時的に、場合によると数年単位という長いスパンで、肩代わりすることが必要なのである。
そうすることで、子どもは愛着を築き直す体験を誌、不安定型愛着を安定型愛着に変えていくのである。
その場合にもっとも重要なことは、その第三者が安全基地として機能しているということである。つまり、親の代わりをするとは、すべての面倒をみるということではなく、安全基地となるということなのである。
(中略)
気持ちがまだ不安定で、心細さを感じるうちは、安全基地に頻繁に頼り、その助けを必要とするが、気持ちが安定し、安心と自信を回復するにつれて、その回数も減り、次第に自力で行動することが増えていく。
さらにもっと時間が経てば、心のなかで安全基地のことを思い描くだけで十分になり、実際にそこに頼ることもなくなっていくかもしれない。
それこそが、究極の安全基地なのだ。
「安全基地がもてない障害」ともいえる愛着障害を克服するためには、良い安全基地となってくれる存在が、是非とも必要なのである。
岡田尊司・著『愛着障害』(光文社新書)

治療者(セラピスト)が暖かいまなざしでまなざし、セラピストの心がクライエントにコピーされることで患者(クライエント)の心は動態化し、受動から能動への反転により外傷体験の無効化が可能になることを『刹那の反転6〜共感のまなざし』でみてきました。

 

安全基地としての治療者』で触れたように、心が動態化した患者(クライエント)はコピーされた治療者(セラピスト)の心の世界を安全基地として、クライエントの「主体的自己」が言葉(語り)を通じて対象恒常性を獲得していくことそのものが「受動性から能動性への反転」を可能にし、愛着の傷つきを癒やしていくのだと考えられます。

言語を機能としてみた場合、言語の最も基本的な機能は“おきかえる”ということにある。
「ママ」「ママー」「おかあさん」「おかあしゃん」と母親を言葉で“おきかえる”ことによって、実際に母親がいてもいなくとも、乳幼児期の子どもの“心の世界”には母親が住みついていくことになる。
精神分析家のM.クラインは、これを「対象恒常性」とよんだ。
そして、母親が実際にいたりいなかったりしても、心の中に母親が住みつくことによって、“自分はいつもここにいる”ことに気づく。
“自分は同じ自分である”と気づくことによって、自分が“1つの自分”に統合される。
宇田亮一・著『吉本隆明「心的現象論」の読み方』(文芸社)

 

愛着障害や愛着(アタッチメント)の傷つき、それからトラウマからの回復のプロセスを『安全基地としての治療者』でも触れた2人の患者さんからいただいた手紙の一部と、野間俊一先生の『解離する生命』の中の「否定の身体」から引用し、結びにかえます。

最初はものすごく落ち込んでいた私も、なんとか自分なりに生きていこうという気持ちになれました。
昔から抱えていたモヤモヤも、先生に話すことで少しずつほぐれていきました。
何より、私を否定せずに受け止めてくださったことで、私の気持ちは救われたと思います。
これから、何か悩みができたときには、まだ多少不安ですが、“先生なら、何て言ってくれるんだろう”と想像しながら、乗り切っていこうと思います。

問題に直前すると私の中の生野先生が助けて下さいます。
生野先生なら何て言ってくださるかな?と考えたりするだけで気持ちが少し落ち着いてきます☆
生野先生に出逢えた事、今でも私にとって大切な大切な宝物です☆
長くなってしまいましたが今年も一年、生野先生にとって好い年である事を願っています。

 

解離性障害患者にたしかに外傷体験と呼びうるような過去がある場合、解離症状は抑圧していた過去の象徴的顕現と理解され、その事実を直視することが治療に必須だという立場がある。
しかしそれが、現在の、たとえば人格交代といった症状の背後にある、抑圧されてきた幼少期の虐待体験を想起し意識化することで、因果の連鎖を明らかにすることを目的としているなら、必ずしも望ましい結果は得られないだろう。
そこで目論まれるべきは、人格交代と虐待体験が現在において同じ「存在の輻(や)」に属しており、「<存在>へのただ一つのまるごとの付着の差違化」として、ある一つの存在論的意味をもっていることを理解することなのである。
そうであるならば、治療の目的とは、けっして過去の想起や統合などではなく、現在の症状や過去の体験のその他さまざまな経験といった<存在者>が<存在>へと開かれるさまを理解し、その布置に変容をもたらすことでなければならない。
このようにしてはじめて、「意味の意識」と「生きられる意識」との乖離も、特有の演技性や非真正性も、個々の解離症状や過去の外傷体験や生得的な過敏さと等価的なものとして検討し直すことができるかもしれない。
野間俊一『解離する生命』

院長

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