PTSD症状を伴わないトラウマ後遺症
ICD-11の「複雑性PTSD」の出来事基準には、「このような出来事には、拷問、強制収容所、奴隷制度、大量虐殺運動やその他の組織的暴力、長期にわたる家庭内暴力、小児期のたび重なる性的または身体的虐待が含まれるが、これらに限定されるものではない」と記載されています。
「これらに限定されるものではない」との文言は誤解を生みやすいようです。
たとえば、「複雑性PTSD」の診断基準を翻訳して示しながら、「生命の危険やその脅威を含まない限りは、外傷的出来事(トラウマ体験)に含めないんですよ」と説明しても、「労働基準局でパワハラの認定を受けたんです。それで私の先生も、パワハラが繰り返されたから複雑性PTSDだとおっしゃったんです。[限定されない]と書いてあるのに、どうしてパワハラはトラウマじゃないといえるんですか?!」と、聞く耳を持たれなかった患者さんもいらっしゃいました。
一方、「単回のトラウマ体験からCPTSDが生じることや、逆に持続的反復的なトラウマ体験から通常のPTSDが生じることも認められている」と言われています。
つまり「これらに限定されるものではない」との文言は、持続的・反復的な外傷的出来事(トラウマ体験)は、「複雑性PTSD」の診断基準の必要条件でも十分条件でもない、という意味のようです。(金. 複雑性PTSDの診断と対応. 精神療法 47(5): 556-562, 2021)
PTSD症状を伴わないトラウマ後遺症
あるとき、慢性のうつ状態を主訴に患者さんが受診されたことがありました。(本人が特定できないよういくつかのケースを合わせ、各部を変更しています)
さまざまな心理検査を行い、「気分変調症(持続性うつ病性障害)」が最も疑われました。
「気分変調症」は、「思春期うつ病」ともいわれるように通常思春期に発症するのですが、この患者さんの場合、前思春期から症状が出ていることに疑問がありました。
治療が進む中で、「実は……」と、患者さんが過去に起きた出来事を話してくださいました。小学生の頃に、家に押し入った強盗から性被害を受けたことがあったそうです。
外傷的出来事(トラウマ体験)後に症状が発症しているからPTSDなのだろうけど、出来事インパクト尺度(IES-R)で検査をしても、再体験症状(侵入症状)、過覚醒や回避症状がないためにPTSDと診断することはできず、「認知や気分の陰性的変化」と症状診断しました。
そんな時に患者さんが、「ときどき急に辛くなって、周りの景色や人が怖くなって、お腹が変な感じがして、逃げ出したくなったり、大声で泣きたくなったりするんです」と、語られました。
「不安抑うつ発作」にも似ているけど、社交不安障害でもパニック発作でもないし、視覚表象を伴っていないから、フラッシュバックとは考えにくい。何だろう?と相変わらず疑問を抱えたまま、抑うつ状態の治療を続けていました。
そんな時に杉山先生の『発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療』で、「認知・思考的フラッシュバック」「生理的フラッシュバック」など視覚表象を伴わないフラッシュバックを知り、この患者さんに起きているのは「感情あるいは感覚のフラッシュバック」ではないか?と考えたのです。
過去の記憶の引き金は、周囲の環境にある何かについての知覚ではなく、漠然とした感情的感覚であることもあります。現在の体験の中で、無力感や対処不能な感じ、身動きのできない感じ、そして傷つきを感じると、そのことによって過去の体験が現在へと浮上してくることが少なくありません。
ルイス、ケリー、アレン『トラウマを乗り越えるためのガイド』創元社
この患者さんには、それまで投与していたセルトラリンを漸減中止し、神田橋処方(変法)に切り替え、「感情あるいは感覚のフラッシュバック」は徐々に減ってきて、「認知や気分の陰性的変化」も改善し、治療終結になりました。
情動記憶の再生とフラッシュバック
外傷性記憶は実体的な記憶内容が反復して想起されるのではなく、生存に関わる体験について、言語的処理をされない、扁桃体の興奮を介しての情動記憶の再生という個体の生存のための反応と、主観的な危機感の減弱のために自己意識の一部を切り離す解離という矛盾する反応が拮抗している。
その結果、内容についても明瞭度についても、また想起の容易さについても、種々の程度が浮動性に混在した断片化した記憶となっており、どのような内容が想起されるかは状況に依存し、一定ではない。
金. 複雑性PTSDの診断と対応. 精神療法 47(5): 556-562, 2021
フラッシュバックというと、ドラマや映画などでは過去の場面が回想的に再現されるシーンのようにイメージされていますよね。
DSMでは想起される内容は「外傷的体験の」とされていますが、「体験内容が正確に明瞭に想起されることは少なく、一部が明瞭で他の部分は不明瞭であったり、想起された内容も事実と異なっていることが少なくない。内容の歪みは意味記憶にも及び、世界に対する否定的な意味付与という認知障害につながることも多い」とされています。(金. 複雑性PTSDの診断と対応. 精神療法 47(5): 556-562, 2021)
PTSDや複雑性PTSDの中核症状である再体験症状(侵入症状)で引き出される情動体験は、回想シーンとはちょっと異なるようです。
メアリーは幸せな気持ちでした。息子の友人たちが家に来てくれてうれしかったのです。
メアリーはサンドウィッチとジュースを載せたトレイを用意し、キッチンからテレビのある部屋へと運ぼうとしました。
そのとき、メアリーは少年たちの大きな声援を聞きました。その大きな声のせいで、メアリーはパニックで凍りついた状態になりました。一歩も動けなくなり、身体が固まり、心臓の鼓動が高まり、目は大きく見開いたままになりました。
通常の考え方ができなくなり、危険が差し迫っているかのように感じられました。ほんの数分のことでしたが、それはまるで永遠のような感じでした。
次第に、心臓の鼓動も収まり、現在の周囲の状況への気づきを取り戻しました。メアリーは自分の家にいて、そして自分は今、安全なのだと自分に言い聞かせました。
ルイス、ケリー、アレン『トラウマを乗り越えるためのガイド』創元社
上記の例では、少年たちの大きな声援がトリガーになり、交感神経系の賦活と同時に凍りつき(背側迷走神経の反応)、感情優位フラッシュバック(情動記憶の再生)、そして解離(離人症状)がみられています。
さらに、この再生された情動記憶の内容については、言語化できていません。
彼(註:ヴァン・デア・コーク)によれば外傷性記憶は強い恐怖を伴うために、その記憶がコード化encodingされる際に体験内容に十分注意を向けることができず、その結果、皮質における処理過程と関連させることができない。
外傷性記憶は、意識の外で情動や知覚を伴って活発に保存されており、それまでの経験の蓄積や意味連関と結合されることがないので、名状しがたい恐怖を伴って再生されるのだという。
金. 複雑性PTSDの診断と対応. 精神療法 47(5): 556-562, 2021
つまりフラッシュバックとは、一般的に信じられているような回想的記憶想起とは異なり、圧倒的な情動体験の再生であり、種々の程度の解離症状を伴うもの、ですから、俗にいう“フラッシュバック”と区別する意味で「解離性フラッシュバック」と呼ぶのです。
院長