メニュー

「できない」の呪い

[2021.01.15]

私がこのクリニックで働くようになってしばらくすると、私の心の中に「できない」が芽生え始めました。

例えばこうです。「私は治療者として経験が少ないからうまくできない」、「私は発達障害特性が強いから患者さんの気持ちを理解できない」、「難しい患者さんが多いから私にはできない」。

でも患者さんのために私が何かしてあげなければいけない。患者さんの前で患者さんの納得する答えを見つけ、新しいアイディアを60分でひねり出し、今後の展望を示さなければいけないんだと。その頃の私は完全にそう思っていました。

 

けれども、当然のことながらこんなやり方はうまくいくはずがありません。何度会っても、何度話を聞いても患者さんのことが分からない。それでも一生懸命知恵を振り絞って、何とかこの人のためにと答えを出そうとしていました。

しかしそれは、患者さんを力づくで納得させようとしているだけで、私のひとりよがりだったのです。本当は私はどこかでそれに気が付いていました。患者さんが退室するときの、納得していない表情、すっきりしない表情、何か言いたげな表情。それらをどれだけ見てきたことでしょう。

 

けれでも私は、だからこそ今度はもっとうまくやらなければ、今度はもっとためになることを言わなければ、という思いを強くしていったのです。そして私はまた、たくさんの本の中にその答えを見つけようとしました。そうすればするほど、私は私自身からどんどん遠ざかっていったのでした。

 

自分を見れなくなった私は、まさに「できない」に取り憑かれていました。「できない」から「したくない」へ、そして「どうして私がやらなくてはいけないのか」という怒りへみるみるうちに変身していったのです。

さらには、スタッフの些細な言葉に対しても、「できない」に刺激された「私はダメだ」が反応して、自分へのダメ出しの言葉にしか聞こえませんでした。そんな私は全身から怒りを放っていたことでしょう。

 

患者さんの前では努めて冷静に振舞っていたつもりでしたが、確実に私の異変は伝わっていただろうと思います。患者さんに対しても、スタッフに対しても、私は人としてあるまじきことをしてしまいました。けれども、この時の私は自分のしていることの重大さに全く気が付いていませんでした。

 

きっかけは生野先生の言葉でした。それは突然の落雷のようでした。最初は自分に何が起こっているのか理解できませんでした。先生の言葉は聞こえるものの、私は激しい衝撃と怒りと恥ずかしさで、その場に立っているのがやっとの状態でした。

放心状態で家までたどり着いた私は、しばらくソファに座り込んだまま動くことができませんでした。味のしない夕食を食べ終えた頃からようやく頭が動き出しました。何が起こったのかを振り返ろうとするたびに、激しい感情の波が何度も襲ってきました。

 

けれども、そんなことを繰り返すうちに、私は愕然としました。生野先生の言葉にではなく、今の自分の姿に。今の私は「できない」を言い訳にして現実から、自分から逃げていただけだったんだと気づかされたのです。そしてそれは、まさに今までの摂食障害の生き方と同じではないかと思いました。

その現実を突きつけられたとき、私は自分が惨めで哀しかった。偉そうにこんなブログなんて書いて…。私は一体何をやっていたんだろう…。どん底に突き落とされたような気持ちでした。

 

落ちるところまで落ちた気がすると、今度はなぜか「このままの自分じゃ嫌だ」という気持ちが湧いてきました。だったら、先生に言われたことをやってみよう。できるかどうかわからないけれど、とりあえずやってみようと思ったのです。

先生にはあの日、たくさんのことを私に話してくれたと思いますが、私の中に強く残ったのは、「自分の課題と向き合うこと」、そして「患者さんに訊きなさい。患者さんに教えてもらいなさい。」ということでした。

 

ほとんど寝ずに朝が来ました。目は腫れて顔もむくんでいるし、昨日の衝撃もまだ引きずった状態でしたが、仕事を休もうとは思いませんでした。

先生の言葉を胸に、ただやってみようという気持ちで職場に向かいました。

 

 

次週に続きます。

▲ ページのトップに戻る

Close

HOME