腕の傷 part2
2か月前「腕の傷」というタイトルで書き上げた記事を読み直してみると、今の自分の気持ちとは違っていることに気づきました。
2か月前の私が感じたこととしてそのままアップすることも考えたのですが、そもそも当時書き上げた時もまだ自分の気持ちにたどり着けていないような感じがしていました。そこで投稿2日前に「腕の傷 part2」として改めて書いてみようと思いました。
大学生の頃突然心の蓋が開いた状態になった私は、今まで思い出さなかった嫌な記憶と、その後の激しい自己嫌悪に襲われました。私の傷はその時のものです。
当時はなぜリストカットをしたのか、自分でもよく分かっていなかった気がします。だいぶたってから本などを読んでみても、そこに書いてある自傷行為の意味や理由にはピンと来ませんでした。
けれど、数年前に出合った「メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服」という本を読んで、やっと腑に落ちた感じがしました。
この内からの目に見えない責め苦への償い・中和・または可視化ともいえるのがリストカット(手首自傷)ですが、リストカットは自己攻撃状態の後に来るもので、そのものではありません。(中略)
償い・中和・可視化としてのリストカットをした後総じて「ホッとする」「楽にならないけど落ち着く」といいます。自分が自分の内面を責める状態より、身体を傷つけられた痛みの方がまだまし、もしくはこの責め苦を目に見える形にして痛めつけて(ヨソモノ自己に)赦してもらう、または責める内部の自分の血とともに出してしまいたいという気持ちもあるかもしれません。
崔 烔仁著「メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服」より
当時の私は、「嫌な記憶とその後の激しい自己嫌悪」からくる心の痛みに耐えきれず、身体の痛みにすり替えようとしていたのだと思います。また、確かに今自分が感じてはいるけれど、目には見えないこの心の痛みをはっきりと目に見える形にして、これが本当に起こっていることなのだと信じたかった、そして見える傷をつくることで少しでも赦してもらいたかったのではないかと思います。
あれから20年が経とうとしていますが、傷跡は残ったままです。2か月前の私は、この傷についてこんな風に書いていました。
“いまだに電車やお店などであからさまな視線を投げかけられることもあります。けれど、私はまあそうだろうと思っています。
もし電車に脚を怪我して松葉杖をついている人が乗ってきたとしたら、私は「どうしたんだろう」とか「大丈夫かな」と少しその人の方に視線を向けると思うんです。ですから私に投げかけられた視線も、それと同じようなものだと思っています。
ただ、相手の感情や思考をコントロールすることはできませんから、私の傷を見てその人が何を考え何を感じるかはその人の自由です。ただ、良いも悪いもなくこの傷も含めて私なんだということです。しなければ良かったという後悔でもなく、必要なことだったという言い聞かせでもなく、私の歩んできた足跡の一部だということです。”と。
当時は自分でこの文章を書きながらもなんだかしっくりこない感じがしていました。そして同じ頃、おもしろい経験をしました。クリニック内の片づけで、重たい段ボールを幾つも運んでいた時のことです。あるスタッフが、「私が運びますからいいですよ。そんな傷までできちゃって…。」と言ったのです。
私はその一言にハッとしました。そのスタッフはおそらく、私の腕の傷を見て“重たい荷物を運んでできたもの”と思ったようでした。そして自分が代わりますよと声をかけてくれたのです。その場の状況や見る人の見かたなどによって、“リストカットの傷跡”が“荷物の痕”にもなること。そして、“リストカットの傷跡”にこだわっていたのは、ほかでもない自分自身だったことに気づかされたのです。
4月から電車通勤になったこともあり、私は腕の傷跡に対する周囲の視線を今まで以上に気にしていました。そして、傷を気にする自分も、傷がある自分のこともどこかで恥ずかしいと感じていたことに気づきました。
この記事を書いている今はどうでしょうか。正直に言うと、やはり今も「医師のくせにリストカットの傷跡があるなんて情けない、恥ずかしい」という気持ちが全くないわけではありません。患者さんのリストカットの話を聴く度に、私の心が揺れ動くことも事実です。自分は病気から回復しました!良くなりました!とアピールしながら、どこかでこの傷を恥じ、ばれてはいけない秘密を抱えているような気持ちがしていたのです。
ただ、part2を書くまでの間に少しだけ変化したことがありました。それは、そういう気持ちを持っていても傷跡を言い訳にはしないという選択ができるようになったということです。例えば後ろめたさや自信のなさを感じた時、うまくいかないことが起きた時、それを傷のせいにはしないという道を、私は選べるのだと今は知っています。
この腕の傷が、私にとって“ただの傷”になるにはもう少し時間がかかるかもしれません。けれども今は、「医師である前に一人の人間であること」、そして「自分の選択に自覚と責任を持つ」というメッセージをこの傷跡から受け取っています。