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与えられたもの その2

[2020.12.25]

最近ある知人がこんなことを話していました。「もっと頭が良かったら〇〇を目指したんですけどね…」と。

 

「もっと頭が良かったら…」「もっと見た目が良かったら…」というように、誰もが一度や二度はもっと〇〇だったらと考えたことがあるのではないでしょうか。かつては私もそうでした。

「もっと〇〇だったら」と自分の特性や容姿、境遇を他者と比較しては「私はAだからBできない」と決めつけていました。私は他の誰でもなく自分が自分に対して能力がないと決めつけ、だからできないと思い込んでいたのです。

 

もう一つ、私がこのところ気になっていることがあります。皆さんもよく耳にする「大人の発達障害」という言葉ですが、これもまた不必要な決めつけになりはしないかと危惧しています。

時々、書籍やテレビ番組などで「発達障害の診断が遅れたために長い間苦しんでいる人がいる」というような表現を見聞きするのですが、私はその表現には疑問を感じています。なぜなら発達障害という診断がつけばその人の苦しみは解消されるかのようにも聞こえてしまうからです。

 

では、実際に自分は発達障害ではないかと思っている人がその診断を受けたとして、その人の抱える苦しみは消えてなくなるのでしょうか。私はそうは思いません。

中には診断を受けたことで長年の疑問が解決し納得できたとかすっきりしたと感じる方もいらっしゃるかもしれません。ですが一時はそうかもしれませんが、その人が生きていく中で抱えている困りごとや苦しみはなにも変わってはいないのです。発達障害という診断をつけるだけでは(そして発達障害ではないという診断であっても)、その人の生きづらさの解決にはほとんど役立たたないと思うのです。(たとえ薬物療法の適法があるような場合であっても、薬で解決できることには限界があるのではないでしょうか。)

 

また、発達障害と診断されることで「私は発達障害だから〇〇できない(できなくても仕方ない)」というような自分自身に対してネガティブな決めつけをして、結果的に自分の可能性を自ら狭めてしまうことにつながりはしないかということも懸念しています。

ある特性や傾向から苦手なことがあったとしても、それが「発達障害だからできない」と決めつけてしまうにはあまりにもったいないような気がするのです。少なくとも私がこのクリニックでお会いする患者さんにとって、「発達障害」という診断が有用だと感じることは今のところ多くはありません。

 

ではなぜ私は「AだからBできない」という考えに囚われていたのでしょうか。振り返ってみると、それは自分に対する「言い訳(excuse)」が欲しかったからという理由に尽きると思います。

「AだからBできない」という言い方を使うことで、私はできない正当な理由を手に入れたのです。そしてそれは現実から目を背けていることに他なりませんでした。けれどもどこまでいっても自分自身からは逃れられなかったのです。

 

これまでの治療や人とのつながりを通して、今は欠点だと思っていた部分でさえ、自分の人生を豊かにしてくれるものだと感じています。例えば私にはこだわりが強いという特性があります。好きなことをとことん追求するということにはプラスに作用していると思いますが、同時にネガティブなことにも執着してしまいやすいという側面もあります。

けれどもその特性が、私に「手放すことの大切さ」を教えてくれていると思うのです。また、私は裁縫が苦手で洋服のお直しは近所のお店にお願いしているのですが、いつも本当に助かっています。自分にはうまくできないことだからこそ、余計にすごいなあとかありがたいなあと感じるのだと思います。

 

こうして考えてみると人は生まれながらにして不完全な存在で、人とのつながりの中でそれぞれに学び成長していくのではないでしょうか。けれども、それは決して不完全から完全になることではなくて、不完全であるからこそお互いの形を補い合いながら生きていくということなのだと思います。

誰もが初めから不完全なのですから、特性や容姿や境遇といった与えられたものに必要以上の意味付けをして、苦しんだり諦めたりする必要はないのです。大切なことは、与えられたものをできない理由に使うのではなく、その意味を見出すことなのではないかと思います。

 

なぜあなたに与えられたのか、そこから何を学び、どう生きる(活きる)のか。それはあなたにしか解けない問いなのです。

 

※私のブログはこれが今年最後の投稿になります。年明けは1月8日にアップします。皆さん、どうぞ良いお年をお迎えください。

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