人への依存と乱れた食行動への依存
「先生は摂食障害よりも〔乱れた食行動〕という言い方をよくされますけど、それは『素敵な物語』の影響なのですか?」とある患者さんから聞かれました。
一般に「摂食障害」とは「神経性やせ症(拒食症)」、「神経性過食症(過食・嘔吐をともなう過食症)」、「過食性障害(むちゃ食い症)」を指しますよね。
しかし近頃の患者さんを診ていると、典型的な「神経性やせ症(拒食症)」よりも「回避・制限性食物摂取障害」から発症した患者さんが多い印象があるのです。
以前に拒食症は強迫症状を伴いやすいといわれていたのは、食物回避性情緒障害や選択摂食、あるいは俗にいうオルトレキシアを拒食症を診断されていたのではないか?と考えています。
さらに「神経性過食症(過食・嘔吐をともなう過食症)」と診断されている患者さんのほとんどが「大食をともなう排出性障害」であり、「過食性障害(むちゃ食い症)」じゃないかと受診される方は過食の定義を満たさない「だらだら食い」や「大食」の人が多いのです。
このように典型的な「摂食障害」とは精神病理も食行動も異なる「食行動障害」が増えているという印象を持っていますし、摂食障害臨床では摂食障害≒やせを主徴とする病態を指すことが多いので、区別するために〔乱れた食行動〕と呼んでいるのですよ。
とは言っても、「摂食障害」と「食行動障害」は共通する精神病理もあるようです。
それはどちらも「情緒的苦痛を一人で調整しようとする方略」であるということです。
物質依存症者は心理的苦痛を独力でコントロールすることに執着しているわけだが、冷静に考えれば、それは最善の解決策ではない。最善の解決策は、その苦痛について周囲に相談し、必要に応じて専門的な援助を受けることであろう。
しかし、彼は周囲に助けを求めようとはしない。Khantzian(カンツィアン)らは、基礎的実験の結果にもとづいて、依存者の多くはアレキシサイミア(alexithymia)の傾向が顕著であり、自分の感情を自覚することが苦手であると指摘している。これでは援助希求どころではないのも当然といえるであろう。
ここに、なぜ一部の者だけが依存症になってしまうのかを説明するヒントがある。
一般に心理的苦痛は、それが苦痛として認識され、言語的に表出されることで内的緊張の減圧がはかられるが、物質依存症者の場合にはそのメカニズムが働きにくい。
つまり、苦痛は減圧されないまま意識化に抑圧され、その蓄積が極度の内的緊張を生み出すとともに、長期的には感情調節障害——ささいな刺激で感情の爆発が生じやすい状態——を準備する。このような内的緊張状態にある者は、物質がもたらす苦痛の緩和効果を自覚しやすく、「報酬」としての効果も大きい。したがって、その後、物質摂取を反復するようになりやすいのである。
松本「自己治癒としてのアディクション」in 『やさしいみんなのアディクション』金剛出版
物質依存と同様に「食行動障害および摂食障害」でも、その中心的な病理は「アレキシサイミア(感情知覚困難)」、つまり、自分自身の心の状態(考え・気持ち・身体感覚)に対するネグレクト、および他者の精神状態に対するネグレクト(メンタライジング不全)があり、これが援助希求の乏しさ(なかなか治療に結びつかない)につながっているようです。
私は、物質依存症者の援助希求の乏しさは、単にアレキシサイミアのせいだけではないと考えている。
そのひとつの根拠となるのが、治療に抵抗する若い薬物依存患者が、まるで申し合わせたように決まって口にする言葉——「人は必ず裏切るけれど、クスリは俺を裏切らない」——である。おそらく物質依存症者に見られる援助希求の乏しさは、実際に援助を求めて傷ついた経験を積みかさねていたり、そもそも誰かに援助を求められるような環境に生育してこなかったりしたことが影響している。実際、若い薬物依存症患者の多くがさまざまな虐待やいじめ被害を生き延びており、彼らの主観のなかでは、世界は信用のならない、危険に満ちた場所として体験されているはずだ。
いささか皮肉な表現だが、こうもいえる。依存症者は「安心して人に依存する」ことができない人たちである、と。その文脈で考えれば、アレキシサイミアでさえも生き延びるための戦略なのかもしれない。
つまり、幼少時からの持続的な苦痛のなかで体得した「苦痛否認の機制」——「大丈夫、俺は痛くない、傷ついてない」と、自分に嘘を繰り返すこと——を通じて確立した「心の鎧」、それを、われわれはアレキシサイミアと名づけているのかもしれない。
松本「自己治癒としてのアディクション」in 『やさしいみんなのアディクション』金剛出版
「実際に援助を求めて傷ついた経験を積みかさねていたり、そもそも誰かに援助を求められるような環境に生育してこなかったりしたこと」は、「愛着トラウマ」に相当するようです。
「愛着トラウマ」は乳幼児期のストレンジ・シチュエーション法(SSP)では「無秩序—無方向型」として評定されます。とくに「無秩序—無方向型」の下位分類である「回避—アンビヴァレント型」は虐待を受けた児に特徴的とされています。
また「愛着トラウマ」は成人アタッチメント面接(AAI)や質問紙法では「未解決—無秩序型」「おそれ型」として、安定型、アンビヴァレント型(とらわれ型)、回避型(軽視型)と組み合わせて付与されます。
「愛着トラウマ」に起因するメンタライジングの機能不全は、フォナギーらによると、
- 他者が考えたり感じたりしていることを認識することの困難さ
- 心理状態について語る能力における制約
- 情動を理解することの困難さ
- 他の子どもたちへの苦痛の共感に失敗すること
- 情動的苦痛を処理することの困難さ
として挙げられています。
このような「アレキシサイミア(上記②③)」を含むメンタライジングの機能不全は、親との関係だけでなく、同胞、仲間、教師との関係など広範囲の対人関係で生じるとされています。
つまり「乱れた食行動に悩む女性たち」は、「未解決—無秩序型」「おそれ型」という混沌を〔対人恐怖的回避型〕あるいは〔遠ざかり境界性自己障害〕というネグレクト的な対人関係スタイル(心の鎧)で守りながら、苦痛を否認するために「悲しい祝祭(乱れた食行動)」を続けている、ということのようですね。
松本:熊谷先生の名言のひとつ、「自立とは依存先を増やすことである」ですね。
依存症の依存という言葉はあまりに手垢にまみれていて、「依存」の反対は「自立」だと安易に考えてしまうけれど、自立とは依存しないことではなく「依存先を増やすこと」である、というのがこの言葉の意味ですよね。(中略)
藤岡:自分が何を感じて、何を欲して、何を考えているのかも、人に合わせているうちにわからなくなっているんですよね。だから薬物依存だろうと性犯罪だとうと、自分自身をつかみきれないことや他人ときちんと関われないことは、どちらも結局は同根じゃないかと思っています。
松本・藤岡・熊谷「鼎談 アディクション臨床の本質とは何か?」in 『やさしいみんなのアディクション』金剛出版
※8月13日(月)〜15日(水)はクリニックは休診です。
8月13日(月)のブログはお休みします。次の週を楽しみにしててくださいね。
院長