トラウマ体験と複雑性PTSD・発達性トラウマ障害
「複雑性PTSD」や「発達性トラウマ障害」に関連した一般向けの書籍を手に取ると、2つのことに気づきます。
1つは「発達性トラウマ障害」の診断基準が掲載されていないこと、そしてもう1つは「発達性トラウマ障害」ではなく「発達性トラウマ」と記載されていて、「発達性トラウマ」という言葉が広い意味で使われているようです。
外傷的出来事(トラウマ体験)に焦点があたっているのかと思いきや、内容のほとんどが、生きづらさの根底には「自己組織化の障害」がある、そしてそれは、「発達性トラウマ」である、のような説明となっているようです。
苦しみを抱えた当の人にとってもまた、それは救いになるのかもしれない。漠然と抱いてきた「生きづらさ」に名前がつくからだ。
アダルトチルドレン、境界例、発達障害、HSP、そのうちにおそらく発達性トラウマ障害もこうした生きづらさを表現するためのラベルとして使われていくだろう。
工藤. 人はなぜそれを愛着障害と呼ぶのだろう. こころの科学: 216, 92-93, 2021.
上記の生きづらさを表現するためのラベルは、「発達性トラウマ障害」ではなく「発達性トラウマ」が相当するようです。
皆さんがお持ちの本はどうですか?「発達性トラウマ」と書いてありますか?それとも「発達性トラウマ障害」と書いてありますか?
「発達性トラウマ障害」は、アメリカ精神医学会のDSMや、WHOのICDなどの正式な診断基準には掲載されていません。
それでもこころの健康クリニック芝大門では、不全型(閾値下)の「複雑性PTSD」を「発達性トラウマ障害」とみなして治療をしているのです。
外傷的出来事(トラウマ体験)と逆境的小児期体験
「複雑性PTSD」の原因になるトラウマ体験には、「拷問、強制収容所、隷属関係、大量虐殺などの組織的暴力、長期にわたる家庭内暴力、反復される幼少期の性的・身体的虐待などが含まれる」とされています。
一方、「発達性トラウマ障害」では、身体的虐待や面前DV、心理的虐待によるネグレクト(育児放棄)や養育者からの再三の分離、が出来事基準として記載されています。(『発達性トラウマ障害』参照)
発達性トラウマ障害
幼少期のトラウマ体験のスクリーニング目的で、「逆境的小児期体験質問紙(ACE質問紙)」が使われます。
ACE質問紙の10の質問には、その人が18歳になる前に、家庭で特定の体験があったかどうかを問う質問が含まれている。
発達性トラウマは5歳以前に起こるトラウマであるから、本質問紙ではその年齢の範囲を超えているが、それでも、ACEがクライアントに与える長期的影響についての重要な情報をもたらした。
(中略)
ACE質問紙の内容は、発達性トラウマか早期トラウマを経験した何千もの人たちの物語である。(中略)しかし、ACE質問紙の10項目のうち、身体的虐待についての質問はわずか2つなのである。他の質問はすべて、心理的なネグレクトか虐待、他の虐待の目的、愛されていないという感情に関係したものである。
ケイン、テレール『レジリエンスを育む』岩崎学術出版社
逆境的小児期体験質問紙(ACE質問紙)には、身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、身体的ネグレクト、心理的ネグレクト、養育者の変更(育児放棄)、面前DV、アルコールや覚醒剤など薬物中毒の家族歴、精神疾患の家族歴、刑事事件の家族歴、など10の項目が含まれています。
この逆境的小児期体験質問紙(ACE質問紙)は、「複雑性PTSD」の出来事基準も、「発達性トラウマ障害」の出来事基準も網羅しているので、診断には有用なのです。
トラウマ体験に該当しない出来事後遺症をどう診断するか?
一方で、親から否定されたり、罵られたり貶されていた、気持ちをわかってもらえなかった、などの広い意味での心理的虐待や心理的ネグレクトに相当する体験をしてきた人たちは、「複雑性PTSD」や「発達性トラウマ障害」の出来事基準を満たしません。
また、長い間いじめをうけていた人や、会社でパワーハラスメントあるいはセクシャルハラスメントを受けた人もまた、「PTSD」や「複雑性PTSD」の出来事基準には該当しないのです。
親からの心理的虐待や心理的ネグレクト、同級生からのいじめ、あるいはハラスメントなどの対人トラウマは、重度の対人不信だけでなく、抑うつ症状や解離症状を引き起こすくらい心的苦痛が強いものですが、残念なことに該当する診断名がないのです。
臨床家たちは、深刻なトラウマ、特に人生の早期に起こるトラウマの複雑な症状を、より明確に表現するため新しい語彙を開発してきた。臨床家や研究者たちは、トラウマによる様々な臨床的特徴をスペクトラムとして見るようになった。
このスペクトラムの一方の極には、急性精神障害、パニック障害、解離症状、うつ病などがあり、他方の極には自己愛性パーソナリティや反社会性パーソナリティなどがある。
つまり単純化されたPTSDという言葉から、「トラウマスペクトラム障害」あるいは「心的外傷後ストレス・スペクトラム障害」という言葉に置き替えようという動きがある。
(中略)
トラウマスペクトラムの最も代表的な特徴の一つは、抑うつである。抑うつは、クライアントがもともと持っている「世界は安全な場所ではない」という感覚から起こる。『精神疾患の分類と診断の手引き』(DSM)に記された抑うつ症状の特徴は、絶望感、集中力に乏しい、興味の欠如、不眠、自殺念慮である。
発達性トラウマスペクトラムとして抑うつを見ると、症状は異なる文脈で解釈できる。それは、早期トラウマの結果としての根本的な調節不全を示しているともいえるし、トラウマ的体験に付随する無力感そのものを表現しているとも言える。
(中略)
無力感は、解離を引き起こす重要な要因である。解離とは、トラウマの中で起こる苦痛、支援の欠如、自己や生命の喪失の可能性から、当事者の意識を切り離すときに使われる、自然な防衛機制である。
ケイン、テレール『レジリエンスを育む』岩崎学術出版社(太字は原文のまま)
そもそも医学的にトラウマ(外傷体験)はICD-11では、「極めて脅威的または戦慄的な性質の出来事または状況」と定義され、このような出来事には、「自然災害や人災、戦闘行為、重大事故、拷問、性的暴力、テロ、暴行、生命を脅かす急性疾患」「突然、予期せぬあるいは暴力的な方法で、他者が負傷したり死亡する脅威あるいは現実を目撃すること」と定義されています。
上記引用の「トラウマスペクトラム障害」や「心的外傷後ストレス・スペクトラム障害」という名称は、心理的虐待や心理的ネグレクトによる後遺症に用いるには不適切と思います。
また、反芻的思考、想起刺激による悪化、回避など、PTSDに類似した症状を呈した場合には、ICD-11では「適応反応症(適応障害)」と診断することになっていて、「適応反応症(適応障害)」の診断もまた、心理的虐待や心理的ネグレクトによる後遺症に用いるには不適切と考えられます。
もし、心理的虐待や心理的ネグレクトによる後遺症でPTSD症状を呈したとすれば、DSM-5の「他の特定される心的外傷およびストレス因関連障害」と診断することが、最も現状に近いと考えられ、こころの健康クリニック芝大門ではそのような方針でトラウマ関連障害の治療を行っているのです。
院長