ガマンと感情の解放の繰り返しで乱れた食行動がクセになる
食物渇望は、特定の食物や特定の種類の食物を食べたいという我慢できないくらい強い欲求と定義されています。
欧米では、多くの研究によって、さまざまな食物の中で、最も渇望される食物はチョコレートであることが示されています。
また、食物刺激によって生じたのは、何かを食べたいという一般的な食欲ではなく、刺激となった食物に対する渇望であることが明らかとなっています。(青山・武藤『心理学からみた食べる行動』北大路書房)
ということは、かつて「エモーショナル・イーティング」で食べた食べ物が食物渇望につながりやすいということですよね。
アディクトの「我慢のダム」はアディクトでない人に比べて、常に満水に近い。
彼らはダムの容量ギリギリまでいつも我慢しているので、アディクトが我慢の限界に達した時は、ダム決壊の一歩寸前なのであり、ただちに大量の「我慢の水」を放流しなければならない。
だからこそ、アディクトたちが好む「物」や「行動」は、いずれも即効性があって、我慢からの開放感やこれまでの我慢に対する達成感を、報酬効果を確実に与えてくれるものばかりなのである。
小林『人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション』日本評論社
「エモーショナル・イーティング」で一時的に気持ちをなだめることができた食べ物を「食べる」という行動は、食物渇望として感じられます。
そしてそれらの食べ物は、受け止めてもらえなかった「甘え」のメタファーでもあるのです。(『乱れた食行動と甘えられないこと』参照)
飲んでから何時間経っても効果が実感できない薬に依存するアディクトはいないし、何時間や何日もの苦痛を我慢しなければ達成感を得られないような行動(たとえばマラソンや登山)に依存するアディクトもいない。
飲んで数分以内に酩酊感や高揚感を得られるアルコールや覚せい剤、自分のペースで単独で行動を開始することができて、直後か、遅くとも数分から数十分程度で手軽に開放感を得られるパチンコ、インターネット上のゲーム、買い物、セックス、過食、あるいは自傷行為などがアディクションになりうる「物」や「行動」なのである。
小林『人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション』日本評論社
日常生活の中でガマンを重ね、それがついに限界に達したとき、人は痛みを伴う感覚を帳消しにするために単独で感覚的快感を得ることができる手段を使います。
摂食障害の場合は「食べる」という行動ですし、さらに「食べ物」という物です。
それら「物」や「行動」のアディクションに頼れば、我慢が限界に達した時、不安や疲労感、イライラ感や怒りといった我慢に伴うさまざまな負の感情は瞬時に「放流」され、「人」に一切頼ることなく、安心感や開放感、高揚感を体験することができる。
そうして心が楽になったアディクトたちは、自分が普段我慢して隠している本音や負の感情を周囲の人々に気づかれることなく、表面的には元気で明るく真面目な「ふり」をして、再び「人」のいる「我慢の戦場」へと踏み出すことができるようになるのだ。
小林『人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション』日本評論社
しかし、「物」や「行動」に頼るこの方法は即座の高揚感を得ることができますが、短期的なメリットしか得られません。
それだけでなく、このやり方はストレスや苦痛を伴う感情にであうたびに反復される傾向があり、その行動自体が強化サイクルを形成し始めます。
これが習慣や嗜癖、あるいはクセになったと感じられる状態です。
しかし、即効性があって、効果を実感しやすい「物」や「行動」は、一方で身体的には耐性が、心理的には学習効果が生みだされやすい、というマイナス面ももっている。
(中略)
心理的にも、行動から得られる効果を脳が事前に予測するようになり、高揚感や開放感は低下していく。
その結果、以前と同じ量や頻度、時間では期待するほどの酩酊や高揚感、開放感が得られないため、アディクトたちはますます量、頻度、時間を増やし続けるしかなくなっていく。
小林『人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション』日本評論社
このような気分解消行動が使えないときには何か物足りない気持ちになり、それが痛みを伴う状況を作り出します。乱れた食行動という気分解消行動は、身体的な耐性にはつながりませんが心理的な学習効果にはつながりますよね。
そうすると、そのような状況そのものがさらなる逃避の願望を生み出し、行動が自己強化的になっていくのです。
痛みを伴う経験から自分の注意をそらそうとする気分解消行動(感覚への逃避)は、快楽を伴うものとは限りません。
リストカットや、あるいは自己誘発嘔吐や絶食(食の拒絶)など、いま感じている現実の苦痛よりも直接的で具体的で、しかもそれほど脅威でも圧倒的でもない苦痛を使って心を引き離すことある場合もあるのです。
しかし、このような「感じないようにする」「なかったことにする」刺激もつかの間のものでしかなく、これが習癖回路(クセになる)の基盤となっていくのです。
院長