エモーショナル・イーティングは摂食障害に移行するのか
皆さんは、「エモーショナル・イーティング」という言葉を聞いたことがありますか?
「エモーショナル・イーティング」とは、「身体的な飢え(ひょうたん型の容器)」を満たすのではなく、「感情的なニーズ(ハート型のバスケット)」を満たすために食べ物を使う方法です。
ストレスを和らげたり、悲しみ、孤独、退屈で淋しいといった不快な感情に対処するために食べ、食べた後には感情的な問題が解消されたわけではなく、パンパンにはち切れそうになった「ひょうたん型のバスケット(胃袋)」を自覚して、さらに気持ちは低迷してしまいます。
「エモーショナル・イーティング」は、アルコールやタバコ等の嗜好品による気分解消行動と関連して、自己治癒仮説で説明されることが多いですよね。
将来アディクションを発症する人もしない人も、誰もがある時点で「疲れを癒やすため」「深く眠るため」「退屈を感じたから」「なんとなくイライラしたから」といった理由で自己治癒的にアルコールをのみ、タバコを吸い、パチンコにふけることはありうる。
(中略)
自己治癒的行動は決してアディクトに特徴的なものなのではなく、むしろ人間である限り誰もがみずから心理的苦痛を感じた時に取る本能的な行動と言っていい。
(中略)
しかし、心理的苦痛に対してアルコールや薬物を自己判断で摂取するという自己治癒仮説だけでは、なぜある人は機会使用者にとどまり、ある人はアディクションを発症してしまうのか、説明することができないのである。
小林『人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション』日本評論社
「失恋過食」という言葉があるように、「エモーショナル・イーティング」をする人すべてが、将来、「過食症」や「むちゃ食い症」など「乱れた食行動(摂食障害)」に悩むようになるわけではないのです。
「感情的な(ハート型のバスケットの)空腹感」と「身体的な(ひょうたん型のバスケットの)空腹感」の違いをしっかり理解しておくことは非常に大切です。(ジョンストン『摂食障害の謎を解き明かす素敵な物語』星和書店:第17章 糧〜〜体 対 心)
通常は「ひょうたん型のバスケット(身体の空腹感)」が満たされると、気持ちも穏やかになり落ち着いてきます。食後に眠くなるのは、この影響もありますよね。
一方、感情的な空腹感は突然の衝動として感じられ、特定の食べ物を食べたくなり、食べ物を詰め込むように、あるいはだらだらと食べて、「ひょうたん型のバスケット」が満たされても、「気持ち(ハート型のバスケット)」は満たされるどころか、後悔や罪悪感(自責感)、恥ずかしさが押し寄せてきてしまいます。
「気持ち(ハート型のバスケット)」の後悔や罪悪感(自責感)、恥ずかしさを和らげるために、また食べ物で「ひょうたん型のバスケット(身体の空腹感)」を見たそうとするのですが、「エモーショナル・イーティング」が将来、「乱れた食行動(摂食障害)」につながってしまうかどうかを分けるのは、どういう要因が関与しているのでしょうか。
自己治癒的なアルコールや薬物の使用そのものがアディクションの原因なのではない。
さまざまな生きづらさから生じる負の感情に対して、自己治癒的なアルコールや薬物の使用、あるいはギャンブルなど、他者との感情の交流が一切ない、単独で完結する行動以外に対処する方法を持っていないことこそが、アディクションの原因なのである。
(中略)
私がアディクトたちの病歴を詳しく聴き取っているうちに、重症なアディクトと、ほとんどアディクトとは言えないほどの軽症な患者や回復したアディクトたちとの違いが顕著に表れていた点は、心理的孤立の度合い、人に対する不信感の度合い、つまりは人に頼れない度合いであった。
機会使用者たちが機会使用のままにとどまれている理由は、心理的苦痛が生じた時、アルコールや薬物などといった「物」やパチンコなどの「単独行動」以外に頼る手段を、レパートリーをもっているからである。
小林『人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション』日本評論社
将来、「乱れた食行動(摂食障害)」につながってしまう女性たちは、「エモーショナル・イーティング」以外の対処手段や気分解消法をもたないこと、とくに他者との感情の交流が乏しいこと、つまり「エモーショナル・イーティング」が「単独行動」になっていることが関連しているようです。
そういう意味では、『8つの秘訣』の「秘訣8 摂食障害にではなく人々に助けを求めよう」は理に適った治療的取り組みだということですよね。
しかし、「乱れた食行動(摂食障害)」に移行してしまう女性たちには、「人に対する不信感」や「心理的孤立」など、生きづらさから派生した「信頼障害」が邪魔をして、他者に助けを求めたくてもできないわけです。
さらに助けを求められずに「エモーショナル・イーティング」に頼ってしまうことが、ますます「心理的孤立」を深めてしまうという「悲しい祝祭」の悪循環を生み出してしまうのですよね。
院長