「死にたい」と向きあう
精神科医として駆け出しの頃、患者さんから「死にたい」と言われたときには、どうしたらいいのか慌てふためき、とりあえず「死なないで欲しい」とお伝えするのが精一杯でした。
「死なないで欲しい」とどんなに誠意を尽くして伝えても、患者さんの表情は寂しげに見えて、分かってもらえなかった感が伝わってきました。
あるとき「死にたい」という言葉の意味を考えていて、自分だったらどう感じるのだろう?とふり返ってみました。たとえば、「フィリップ島」の名前も聞いたことがなく、まったく知らない人であれば「どこそれ?」と怪訝な表情を浮かべるだけで、「フィリップ島に行きたい!」なんて思わないでしょう。
(ちなみに、フィリップ島はメルボルンから車で2時間ほどのところにある、私が大好きなところです。)
また、多くの人が死後の世界がどうなるか全く知らないのに、「死にたい」と思うのはなぜなのでしょう?
私自身は、「死にたい」は「此処から居なくなりたい、逃げ出したい、消えてしまいたい」「今のこの苦しみが終わってほしい」という意味なのだろうか?と考えていました。
内科医の頃、亡くなった患者さんが帰られた後のベッドに横になって、病室の天井を眺めながら患者さんはどんな思いで最後の刻を迎えられたのだろうかと、思いを巡らせたことがあります。
でも今世では死んだことがないので、死の間際ではどのような、そして、どの程度の苦しみを味わうのか、誰もわかりません。しかし洗面器に水を張って顔を浸けてみれば、呼吸ができない苦しさや、逃げ出せない苦しさから、臨終の間際の苦しさを想像することはできます。
さらに、死ねば苦しみが終わる可能性もあれば、同時に死後の世界でも苦しみが続く可能性もあります。よく考えてみると、五分五分の確率に身を委ねるのは大きな賭けでしかありません。あえてそのような無謀な賭けにチャレンジしようと思うのは、もしかすると、そのくらい今の苦痛が強いことを漠然と訴えているのではないだろうか?、そう思えるようになってきました。
上記のようなことを患者さんに問いかけたこともあります。
患者さんは戸惑ったような表情を浮かべられるので、「死にたい」という言葉は、言葉になる以前の何か感覚的なものを表現しているのではないのか、と考えるようになりました。
「死への欲求は二つの心理的要素から成り立っている。それは主観的な苦痛と関係性の喪失である……両者が同時に発生するとき、死への欲求が生み出されるのだ」(ジョイナー)
そう、「死にたい」という言葉は主観的苦痛の表現である。それが誰かに向けて発声された時点で、そこには必ず「自分の苦痛を誰かに知ってもらいたい、わかってもらいたい」という関係性への潜在的な渇望が、わずかな希望が込められている。実際に自殺既遂に至る者たちは、他者と新たな関係性をもつこと、他者にわかってもらうこと自体を諦めてしまっている。
(中略)
「死にたい」と言われたら、それは相手が「死にたいほどつらく苦しい気持ち」を抱えていて、「あなたにわかってもらい、共感してもらって楽になりたい」と訴えているということなのである。
小林. 依存や自傷の臨床. こころの科学: 216, 80-84, 2021.
『人を信じられない病―信頼障害としてのアディクション』の著者で、神奈川県立精神医療センターの小林先生のこの文章を目にしたとき、あぁ!そうだったのか!と納得がいきました。
「死にたい」と訴える多くの人が、一人で居るときに無意識にその言葉を口にしたり、あるいは他者に向かって伝えたりするとき、「死」を望んでいるという意味ではなく、「死」と匹敵するくらいの苦痛を感じていることを表現する術がない、そのことをわかってほしい、ということなのかもしれないと考えるようになりました。
小児期逆境体験を経て潜在的な他者不信が増幅し、人に頼れない「信頼障害」の状態に陥っているからこそ、自分一人で楽になる方法を探さざるを得ないのだ。
おそらく小学校かそれ以前から、周囲の重要な他者との愛着関係を通して、周囲の人に頼って心的苦痛を緩和する、という発達課題を達成してこなかったはずである。
だからこそ、「誰か死にたいくらいつらい私のこころの苦痛をわかって!聞いて!」と普通に言葉にして周囲に伝えることができなくなっている。「死にたい」という短縮された言葉だけなら発することができるが、残念ながらあまりに語句が省略されてしまっているため、普通の人には「自殺したい人」としか受け取ってもらえない。
下手をすると「周りにアピールして関心を集めようとする甘えた奴」などと周囲から陰性感情を向けられ突き放されるリスクさえある。そうなるとますます言葉を介して物質乱用などといった行動を用いて、単独で苦痛に対処することしかできなくなる。
小林. 依存や自傷の臨床. こころの科学: 216, 80-84, 2021.
「死にたい」という表現の背景に、こころの苦痛を言葉を介して表現できない愛着(アタッチメント)の問題が横たわっていることが指摘されていますよね。
「周囲の重要な他者との愛着関係を通して、周囲の人に頼って心的苦痛を緩和する」対人学習が乏しかった中で、「死にたい」と口にすることは、患者さんにとっては思い切ったSOSの表現だったのです。
現在、児童青年期ばかりでなく成人の精神科臨床でも、抑うつや薬物乱用、トラウマ、解離、自傷行為、(誤解を恐れずにいえば)発達障害などが大きな問題になっている。
当院を受診する多くの児童・青年・成人の患者が訴える上記の症状には、彼らの言語獲得以前の体験が大きく関与していると考えられることが多い。また、ほとんどのケースでみずからの症状や苦悩を的確に言葉で表現できない。
それぞれの主訴が不登校や自傷、ひきこもり等の問題行動として、また腹痛・頭痛といった痛み等の身体症状として表れてくることも多い。
大高. 思春期臨床の立場から. こころの科学: 216, 51-56, 2021.
「工藤は、青年期とは、対人関係にさまざまな変化が生じ、内在化されたアタッチメントシステムが活性化し、かつての絆の傷つきが再燃しやすくなる時期」と呼んでいます(前掲論文)。
青年期に言語獲得以前の体験が再燃(エナクト)したとき、その言語獲得以前の体験は言葉では表現できないのです。
もう一つの特徴は、生理的症状と心理的症状が相互に区別ができないことである。その結果として生じる、頭痛、腰痛などの慢性疼痛が高い頻度で認められる。これまた医療機関を何ヵ所も回り、痛み止めを処方してもらい、たくさん服用し、これが胃を荒れさせ胃痛をもたらす。ところがこの疼痛の訴えを、心理的な問題としてとらえると、初めて消えたりする。
逆の場合もある。死にたいという強い訴えが、軽食を食べ、うたた寝をすると飛んでいたりする。のどが乾いてお腹が減っていただけだったのだ!
こんな訴えに対して、まじめな医師がせっせと薬を処方する結果、めちゃくちゃな多剤・大量処方になるのである。杉山『発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療』誠信書房
そしてその時に「死」という言葉を選ぶのは、死が日常の延長にある非日常であり、同時に、皆死ぬことは確実なんだけれども、それがいつなのかは誰にも分からないという、不確実性に対する恐怖、つまり、現在の状況を変えたいし変える必要があるのだけれども、どうすればいいかわからないという意味でのSOSの表現でもあるのではないか、「熟考期」で現実に対して行動変容を起こせないもどかしさの表現なのかもしれない、と考えるようになったのです。
希死念慮は多い。その背後には、他者への恒常的不信があり、インターネットのジャンクデータを頼り、なかなか医師の言うことなど聞いてくれない。自傷も多い。
その一方で非現実的な救済願望がよく認められる。これは対人に限らず、ペット・ホーダー(多数のペットを蒐集してしまう)の形で、愛着障害が現れることもある。
杉山『発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療』誠信書房
もし皆さんの周りの人、パートナーや友人から「死にたい」と言われたときには、「死」という言葉を字義通りに受け取って慌てるのではなく、その言葉の裏にある心的苦痛に思いを馳せ、「そのくらい苦しいんだね、つらいんだね」と照らし返して支えてあげてくださいね。
院長