「暇が苦手です」
「暇が苦手です」「疲れていても予定をつめこんでしまいます」というのも患者さんからよく伺う言葉です。
その理由を伺うと、「何もしない時間があると食べてしまうから」「食べる時間を作らないために敢えて予定をつめこんでいる」と話される方がとても多いと感じます。
これは、院長ブログ「聴心記」の中で過食や過食嘔吐の引き金としてたびたび説明されているHALTのL(何もすることがない/孤独感を感じている)に当てはまりますよね。
今日はアニータさんの著書を引用しながら、「何もすることがないと食べてしまう」という心の動きについて少し考えてみたいと思います。
私たちは性別に関係なく、誰もが女性と男性の性質の両方を兼ね備えていて、両方をバランス良く発達させることが大切なのです。どちらが正しいということも、一方がより価値のあるものだということもありません。どちらかだけが尊重されたり優位化されたりして、両面のバランスが崩れたとき、さまざまな問題が起こってしまうのです。
アニータ・ジョンストン著 「摂食障害の謎を解き明かす素敵な物語」より
アニータさんは、私たちは皆自分の中に女性の性質と男性の性質の両方を持っていて、それぞれのバランスが大切なのだと述べています。そして、それぞれの性質についてアニータさんは月と太陽という象徴を用いてこんな風に説明されていますよね。
昔から、月は女性の象徴でした。月は周期的で、しかも千変万化して神秘的です。月から放たれる光は、男性的な性質を象徴する太陽が放つものとは逆で、穏やかで反射的で思慮深く、放射的です。
現代の私たちの文化では、夜や冬よりも、太陽の光や昼間、そして夏が大切にされています。たとえば、太陽が出ているかどうかや、晴れるか曇るかばかりを気にして、月やその周期に気を配ることはありません。
それと同時に、一本気さ、明瞭で論理的な考え方、目標指向であること、競争的な行動、直線的な構造、生産性、業績といった、男性らしさだけを評価するようになりました。協力的で関係性を重んじる姿は軽視され、美学、直観、慈しみ、そして人間らしさはつまらないもの、と考えられるようになってしまったのです。
(中略)
私たちが暮らす社会では、女性らしさと男性らしさのバランスが崩れ、男性的な本質がはるかに推奨される一方で、女性的な本質は押さえ込まれています。明確な目標に基づいた活動、業績、そして効率ばかりが評価され、「~すること」が「~であること・いること」よりも大切とされています。物事の取り組み方や趣旨よりも業績が重視されているのです。
アニータさんは、摂食障害の患者さんの心の中ではどんなことが起こっているのかについて女性性と男性性という観点からこう話されていますよね。
乱れた食行動で苦しむ女性の心は、やたらと発達した男性サイドが常に女性サイドをコントロールしようとしている状態にあります。しかも男性サイドは女性サイドに対して無慈悲で批判的で冷淡です。
そのため、彼女たちの人生は次から次へとやってくる用事や雑用など、延々と続くやらなければならないことのリストで埋め尽くされています。そして空想を楽しんだり、リラックスしたりできる静かな時間は「時間の無駄」として追いやられるか、向上心や目標達成の邪魔になるとして退けられます。
そして、乱れた食行動の克服のためにはどうあるべきかをアニータさんはこのように語っていらっしゃいます。
乱れた食行動の克服には、ゆっくりと時間をかけ、自分の女性的側面を再発見しよう、と強く意識することが不可欠です。そうすることで、男性的側面と女性的側面とのバランスを保てるようになるのです。そのためには、(中略)どうやったらまた月(かのじょ)を取り戻すことができるのか、私たち自身の内面にいる賢い女性に助言を求めなければなりません。
当時この本を読んで、私自身も“男性サイドの暴走状態”にあったのだと気づかされました。仕事だけでなく、休日さえも「この本を読んだ」とか「〇〇を買った」というように目に見える結果がないと、その日1日を無駄にしてしまった罪悪感と焦りでいっぱいになりました。
ですからどんなに疲れていても休日にゆっくり睡眠をとるなどというのは、私にとっては全く意味のないことで、いつも「何をするか」ということで頭がいっぱいだったことを思い出します。
今振り返ってみると、治療の過程でできないことができるようになったことよりも、ただありのままの自分でいられるようになったことこそが、最も大きな変化だったような気がします。
何もしなくていい。ただありのままのあなたでいるという温もりと穏やかさが、皆さんにも訪れることを切に願っています。