「傷つき体験(プチ・トラウマ)」としての「過食症」
[2015.06.22]
磯野真穂・著『なぜふつうに食べられないのか』に
彼女たちがうまく食べられなくなったきっかけは、いじめ、身体への揶揄・友人・家族関係のいざこざなど、人々とのつながりの間に生じた亀裂であった。 その亀裂が苦しかったからこそ、彼女たちはやせることに活路を見出そうとしたのである。 そして彼女たちの試みは、ほんのひとときであるが、成功を収めた。 磯野真穂・著『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』春秋社とあるように、ダイエットに向かうきっかけは人それぞれですが、「摂食障害」という病気からさかのぼって見ると、それまでのやり方が通用しなくなった状態(コントロール感覚が失われた状態)で、「溺れる者は藁をもつかむ」のように、体重や体型という「藁」にしがみつくことで、摂食障害の発症につながるようです。 このような対人関係的な文脈で摂食障害が発症したとしても、対人関係療法では
やせるための行為が、生活のバランスを乱し人生の質をそこねても維持される理由を考え、そこに焦点を当てていくのです。
過食症状のある人でも、何かに熱中したり楽しんだりしているときには、不思議と過食の衝動はなくなるものです。 過食の衝動が起こるのは、不安や不満が強いときや、退屈を感じるときなどが多いのです。 (中略) 本当に向き合うべきなのは、過食ではなく、これらの不安・不満・退屈といったものなのだと思います。 そして、それらに直接向き合おうとするのが対人関係療法です。 水島広子『拒食症・過食症を対人関係療法で治す』紀伊國屋書店対人関係療法では現在の対人関係上で起きてくる「不安・不満・退屈」という「本当の問題」に焦点を当てるのであって、「今の対人関係に問題があるからそれを修正する」ということではない、ということが理解できると思います。(『あらためて対人関係療法とは』参照) ちなみに、水島先生は「熱中したり楽しいときには過食衝動は減る」と書いておられますが、嫌なことだけでなく、楽しいこと、嬉しいことがあっても「心が動く」ので、過食が起きてしまうことがあります。 (『「過食症/むちゃ食い障害」の対人関係療法の初期に過食が増える』参照) 一方で、「嬉しい過食」については過食体験が楽しさを内含するためという意見もあります。
実際、「過食中は何も考えなくてもよい」、「過食中は悩みが押し寄せてこない」という結城たちの発言が、過食中の体験がフロー体験に似ていることを示す。 過食という行為に自らを一体化させることにより、彼女たちは日常生活で頻繁に起こる悩みや迷いの一切を遮断することに成功しているのである。 (中略) 彼女たちが過食を手放したくとも手放せない理由は、過食がフローを誘発するからである。 過食の内部において彼女たちは、自らを批判的に見続ける日常からほんのひととき解き放たれる。 だからこそ過食は嬉しいことがあったときや退屈なときにも起こる。 過食が継続する理由の一つは、過食という体験の内側に潜む、ある種の楽しさにも依拠するのである。 磯野真穂・著『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』春秋社「過食」が現状の自省と客観視を放棄する「フロー」であるなら、「問題の本質」は拒食や過食といった現象そのものにあるのではなく、「生活のバランスを乱し人生の質をそこねても過食が維持される理由」にあるということですよね。
彼女たちが食べ方を変えたそもそものきっかけは、人と人とのつながりをより快適なものに修正することだったのである。 しかしそれは結果的に、孤立という彼女たちがもっとも望まない方向に彼女たちを誘導することとなった。 日常の食を反転させる形で行われる過食は、フローを引き起こし、それは彼女たちが不安と心配事がうずまく日常を乗り切るための術として定着した。 しかし、そのフローは誰とも共有することができない。 過食は続ければ続けるほど孤立を生む、悲しい祝祭なのである。 磯野真穂・著『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』春秋社過食症のきっかけは「コントロール感覚が失われた状態」であり、過食の維持因子は「対人関係上の不安・不満・退屈」であることは『自分自身の信頼感の断絶・周囲の人たちへの信頼感の断絶』というトラウマと構造が似ていますよね。 それまでのやり方が通用しないコントロール感覚が失われた状態、つまり、「自分自身への信頼感が感じられなくなった」中で、人とのつながりを快適なものにするための方策(ダイエット)が逆に「孤立」という「周囲への信頼感の断絶」を引き起こし、そのことが「悲しい祝祭」としての過食の維持因子になっているということで、過食症とトラウマはすごく似ていますよね。 院長