刹那の反転2〜受動から能動へ
前回の『刹那の反転1〜トラウマの成り立ち』で、「主体的自己]は、0.5秒の遅延により「最初から知覚していたかのように」認識することに関与しているらしいということをみてきました。
もう少し、内海健・著『さまよえる自己』(筑摩選書)を読み進めてみたいと思います。
たとえば、時速40kmで運転しているとき、5m先に自転車が飛び出してきたとする。もしそれに気づいてからブレーキを踏んだのでは、間に合わない。それどころか、踏む前にすでに轢いてしまっている。
(中略)
運転手はとっさにブレーキを踏む。そしてあやうく惨事を逃れる。この時、運転手は飛び出しに気づく前に、つまり0.5秒の脳処理過程が済むのを待たずに、反射的にブレーキを踏んでいるはずである。そうでなければ間に合わない。(註:0.5秒の間に、時速40kmでは約5.6m進む)しかし、間一髪難を逃れたあとで、運転手はたとえば次のようにいうのではないだろうか。「いきなり自転車が飛び出してきたので、急ブレーキを踏んだら、轢かずにすんだ。あぶないところだったよ」と。あたかも意識をしてブレーキを踏んだかのように、出来事を組み替えなおすのである。「勝手に自分の足がブレーキを踏んだらしく、車が急に止まって、気がついたら目の前に自転車があった」とはならない。
『さまよえる自己』
「意識をしてブレーキを踏んだかのように、出来事を組み替えなおす」、これが0.5秒の遅延の刹那に起きる心的現象のようです。
同じようなことが野間俊一・著『身体の時間』(筑摩書房)に書いてありました。
バシュラールは、ビリヤードに興じている人を例に挙げている(『持続の弁証法』)。キューで球に狙いをつけているとき、これまでの経験を思い出して筋肉を緊張させたり弛緩させたりする。そのように生理的活動に反省的意志が加わった結果、どのような力でどのような方向にキューを打つべきかをある瞬間に決意し、その直後に一打が発せられるという。決意は「瞬間」的かつ「偶然」的であり、その後の筋肉運動はそこからの生理学的な必然的経過である。すなわちバシュラールは、行動の直前の「ためらい」にこそ、瞬間の本質を見て取っているのである。
それでは、バシュラールの指摘した瞬間の経験における「ためらい」は、何を意味するのだろうか。彼は、行動の直前のためらいには「意志」のテーマが潜在している、と主張する(『持続の弁証法』)。
たとえば、夜道で声をかけられ、どきりとした瞬間を想像しよう。夜道はたしかに不気味ではあるが慣れた帰宅路であり、とくに警戒することもなく、自宅での一杯のビールに想いを馳せつつ歩みを進めている。しかし、思いがけなく呼び止められた瞬間、不意な攻撃に対処すべく身構え、全身に緊張が走る。これは、自分の身を守ろうとする本能的な動作、すなわち、生命的自己の所作である。しかし、夜道で声をかけられたという事実は、それと並行して生じた生命的自己の突出とともに、意志の中核たる主体的自己にとっては、脈絡を欠いた偶然の出来事である。よって、それに対応する次の行動を準備するのが、精神の営みである「意志」というわけである。声の主が誰かと問い返すのも、そこから遠ざかるべく夜道を駆け出すのも、意志の導きによる行動である。
『身体の時間』
「ためらい」に潜在する「意志のテーマ」が、0.5秒という刹那(あるいは瞬間)の「主体性」と「受動から能動への転換」に関与しているようです。
似たような経験を、われわれはずっと昔にしていますね。それは吉本隆明が『心的現象論序説』で論じたように
心的な領域は、生物体の機構に還元される領域では、自己自身または自己と他者との一対一の関係しか成りたたない。
『心的現象論序説』
ということを基盤にした「主体的自己」の「受動性から能動性への転換」のようです。
次回は、「主体的自己」が立ち上がる刹那をみていきましょう。
院長