刹那の反転3〜主体的意識の立ち上がり
『刹那の反転1〜トラウマの成り立ち』では、末梢の刺激が意識に上がるまでに、0.5秒もの脳の処理過程が必要であり、遅れたはずの意識が、最初から知覚していたかのように報告することで、結果的に遅れが取り戻されているというリベットの実験結果をみてきました。
『刹那の反転2〜受動から能動へ』では、0.5秒の遅延の間に、意識は出来事を組み替えなおすことで、最初から知覚していたかのように認識することに関与しているらしいということをみてきました。
今回は、主体的意識あるいは主体的自己が、0.5秒の間にどのように立ち上がるのかをみていきましょう。
もう少し宇田亮一・著『吉本隆明『心的現象論』の読み方』を読み進めてみましょう。
ただ、乳幼児は忽然と自分自身に気付くのではない。
“一体”であった母親(あるいは養育者)が自分をあやしたり、自分を哺育していることに気づき始めるのである。
自分に気付くのではなく、呼びかける母親に気づくのである。
母親のまなざしに気付くことで、母親のまなざしを受けている自分に気づくのである。
つまり、母親があることによって自分があるという気づき方なのである。
また、母親に気づくことによって、母親でない第三者にも気づくのである。
宇田亮一・著『吉本隆明『心的現象論』の読み方』(文芸社)
「母親があることによって自分があるという気づき方」から、「自分があって、母親もある」という組み替えなおしが起きていますね。
この「組み替えなおし」こそが「受動性から能動性への転換」のようです。
では「主体的自己」はどこから立ち上がるのかをみていきましょう。
赤ちゃんは、ただ泣いているだけなのに、母親は「あぁー、お腹が減ったのね」と思う。
その思いは厳密にいえば母親自身の思いにもかかわらず、あたかも赤ちゃんがそれを発しているかのように受け止めるのである。
そして、赤ちゃんは母親から“投影”されることによって「あぁお腹が減っているんだ」という気づきが起こる。
これを“取り入れ”という。赤ちゃんの“心”は、こうした“投影”と“取り入れ”によって目覚めていく(動態化していく)のである。
宇田亮一・著『吉本隆明『心的現象論』の読み方』(文芸社)
主体は、他者から「まなざされる」ことで、“投影”と“取り入れ”によって動態化していく、これが「主体的自己」の成り立ちのようです。
では、他者というまなざす存在が介在しない場合は、主体的自己は立ち上がらないということなのでしょうか?
吉本隆明はこういいます。
人間が心的にもつ<関係>は、じぶん自身との<関係>、じぶんと他者との<関係>、じぶんと世界(環界)との<関係>というように類別することができる。
『心的現象論本論』
吉本は、ヒトが一個人として外界とやりとりするすべてのこと、つまり“自分自身との関係世界”(「個人幻想」)を“対人関係の1つ”に位置づけており、他者としてまなざす存在は、他ならぬ自分自身ということになります。
cf.「幻想」とは、普通の言葉で言えば観念のこと。
「個人(自己)幻想」とは、他者が介在しない自分との関係世界。「自分自身との対話」「一個人としての意味づけ・価値付けの世界」。
「対幻想」自分と他者との1対1の二者関係(ペア)の世界。
「共同幻想」自分と社会の関係世界。チーム、学校、企業、国家といった組織/集団との関係世界。
「対幻想」と「共同幻想」とは、自他の心に一線を引くことが出来ない心の状態。
自分自身が他ならぬ自分自身をまなざすこと、その“投影”と“取り入れ”によって動態化したのが主体的自己ということになりますよね。
この時間的遅延が0.5秒ということで、“投影”と“取り入れ”という体験の仕方が主体的意識のようですよね。
投影とは、二者関係の中で「自分の中にある感情や欲望を相手が持っているものだと思うこと」を指す。
自分が相手に対して何らかの感情を抱いたとき、その感情を自分の感情ではなく、相手が自分に差し向けている感情だと思うのである。
宇田亮一・著『吉本隆明『心的現象論』の読み方』(文芸社)
次は、この0.5秒が意識にとって、どんな意味を持つのかを考えてみます。
院長