逆境的小児期体験とパーソナリティ障害
一般精神科診療所の外来通院患者における「逆境的小児期体験(ACEs)」と「潜在的トラウマ体験(PTEs)」の頻度を一般人口のデータと比較した報告があります。
論文では、対象者のうち1つ以上の「逆境的小児期体験(ACEs)」を有している人は61%、1つ以上の「潜在的トラウマ体験(PTEs)」がある人は88%であり、これらは日本の一般人口調査の結果と比較して有意に高かった、という報告されています。(田中、他., 精神科診療所受診患者における逆境的小児期体験と生涯トラウマ体験の頻度およびPTSDに関する横断調査. 精神神経学雑誌 123: 396-404, 2021.)
さらにこの研究に協力された診療所は、トラウマ・PTSDの専門外来を標榜しているわけではないのですが、「情緒不安定性パーソナリティ障害」や「むちゃ食い障害」とPTSDの関連が報告されている先行研究と同じように、パーソナリティ障害や摂食障害に「PTSDハイリスク群」が多くみられたということでした。(田中、他., 精神科診療所受診患者における逆境的小児期体験と生涯トラウマ体験の頻度およびPTSDに関する横断調査. 精神神経学雑誌 123: 396-404, 2021.)
「過食症」や「むちゃ食い障害」などの摂食障害の治療、あるいは、「愛着の問題」や「複雑性PTSD」などトラウマ関連障害の治療を専門に行っているこころの健康クリニック芝大門では、「逆境的小児期体験(ACEs)」「潜在的トラウマ体験(PTEs)」など「PTSDのハイリスク群」は、かなりのパーセンテージに上ります。
PTSDのトラウマの定義は「生命にかかわる脅威」ということであり、「苦痛な体験」という一般的な意味で用いられるトラウマの理解とは異なることに注意する必要があります。
ICD-11のCPTSD(註:複雑性PTSD)の出来事基準は、PTSDのそれと同様に、極度の脅威や恐怖を特徴とする出来事への曝露というトラウマ体験である。そうしたトラウマ体験のうちで、CPTSDでは持続的、反復的なものが引き金となることが多いとの説明がなされているが、持続的、反復的ということは出来事基準の必要条件でも十分条件でもない。
また持続的反復的トラウマ体験の例としてあげられているのは、拷問、奴隷、ジェノサイド、持続的DV、反復される児童期の性的身体的虐待であり、パワハラやいじめなどの体験は、生命の危機やその脅威を含まない限りはこれらに含めることはできない。
なお臨床家によっては虐待という用語を家庭内の厳しい躾や両親の不機嫌などを指して用いる場合もあるが、PTSDの文脈で虐待というときには、子どもにとって生命の危機に直面するようなトラウマ体験を指している。
金. 複雑性PTSDの診断と対応. 精神療法 47 (5): 556-562. 2021.(下線は院長)
この定義でみると、やんごとなき御方が複雑性PTSDと診断されたことは、複雑性PTSDの出来事基準には合致していない、ということになりますよね。
一方、心理的虐待、身体的虐待、性的虐待、心理的ネグレクト、身体的ネグレクト、両親の離婚や別居、母への暴力(面前DV)、家族のアルコール/薬物依存、家族の精神障害や自殺、家族の服役、家族の身体疾患、および経済的困難など、生命の危機に直結しない体験は「逆境的小児期体験(ACEs)」と呼ばれます。
「逆境的小児期体験(ACEs)」があると、抑うつや不安、薬物乱用、自殺未遂など、何らかの精神疾患を有するリスクが約2.5倍に高まると言われています。
セリさんも医師からそのように説明されたようです。
医師はかみ砕いて説明した。私が、幼少期から思春期にかけて、精神的虐待を受けていたことによる「基本的信頼感」の欠如。自己否定感、極度の愛情飢餓感。それゆえ生まれてしまった認識の偏りと、抑えきれない衝動。
(中略)
あるとき、医師が言った。
「あなたの場合、苦しみの原因は病気だけではないかもしれませんね」
「えっ」
そんなことを言われたのははじめてだった。医師は続ける。
「境界性パーソナリティ障害の多くは、子どもの頃、愛情をちゃんと受け取れなかったことから起こります。薬だけでは治すことはできません。これから愛情を受け取って、治るのではなく、成長していきましょう」
咲・咲生『「死にたい」の根っこには自己否定感がありました。——妻と夫、この世界を生きてゆく』ミネルヴァ書房
先に紹介した研究でも「「逆境的小児期体験(ACEs)」スコアが高いほど,抗うつ薬,抗不安薬,抗精神病薬が処方されることが多いといわれているが、ACEsがない患者と比べると薬物療法への反応性は不良のようである」と報告されています。
「薬だけでは治すことはできません」と説明したセリさんの主治医の対応は、理にかなったものだったようです。
後になって知ったことだが、父の父も大酒飲みで、飲むたびに暴れていたらしい。その間、父の母は外に逃げ出し、父と姉妹たちは押入れに隠れた。父も心に傷を抱えていたのだ。
(中略)
私は、幼い頃から、母の前では弱い自分を見せることができなかった。
なぜなら母は、私が守らなきゃいけない存在だから。罵声を浴びせる父から。同時に、弱い母に失望してもいた。
守ってくれないことを、恨んでもいた。
だけど、今、私はこんなにボロボロの姿を母にさらしている———。(中略)
あの頃から、私は、母に確かに愛をもらっていたのだ。
「つらいよ……生きていたくないよ……」
心配そうな母に、遠慮することなく、私は素直に弱音をぶつけた。
病気のおかげで、はじめて、子どものように母にあまえることができた。咲・咲生『「死にたい」の根っこには自己否定感がありました。——妻と夫、この世界を生きてゆく』ミネルヴァ書房
セリさんは自分の苦しみから少しだけ離れて、自分の苦しみの要因となった両親の人生に思いを馳せています。
医師に指示された「愛情を受け取る」ということは、「すでに受け取っていた愛情に気づく」ということなのです。
しかしながら私たちの自己感とアイデンティティの土台になる愛着関係での傷つき——「愛着トラウマ」——は、「逆境的小児期体験」として、アイデンティティと対人関係の混乱につながります。
情緒的欲求の命運がかかる青年期・成人期の親密な関係のなかでは、愛情を受け取ろうにも受け取れない対人関係の困難をもたらします。
この困難がパーソナリティ障害と呼ばれます。
多くのパーソナリティ障害は、対人関係に困難をもたらすようなパーソナリティ特性の過剰という形をとります。(中略)パーソナリティ障害の大まかな診断基準は、対人機能および自己感における重要な機能不全を含んでいます。
(中略)
幼少期の不適切な養育のタイプによって後に生じるパーソナリティ障害に多少の差違があるとはいえ、トラウマと関連するパーソナリティ障害は広範囲にわたるのであり、(中略)しかし、すべてのパーソナリティ障害の中で、愛着トラウマおよびメンタライジング機能不全と最も体系的に関連づけられてきたのは、「境界性パーソナリティ障害(BPD)」です。
J.G.アレン『愛着関係とメンタライジングによるトラウマ治療』北大路書房
「対人機能障害」を含む自己感における重要な機能不全(「否定的自己概念」と「感情調節障害」)など、「自己組織化の障害」と同様の困難をもつパーソナリティ障害のうち、セリさんが診断された「境界性パーソナリティ障害(BPD)」は、発症要因としての「愛着トラウマ(関係性トラウマ)」や「逆境的小児期体験」、そして、維持要因としてのメンタライジング機能不全を特徴とします。
「パーソナリティの諸特性は、正常か不適応的かを問わず、どのくらいあるかという程度の問題であり、私たちすべての中に混じり合って存在」しているため、「自己組織化の障害」のさまざまな側面が問題となりやすいのです。(前掲書)
院長